門左衛門のメモ帳

趣味と本の感想

【感想】『小説禁止令に賛同する』よくわからないけど妙に現実的で怖い

 特段読書が好きというわけではないが、本屋に陳列されている本を眺める、手に取る、そうした行為に時間を使うことが好きだ。そんな私は、昨日も本屋を訪れ、小説コーナーと新書コーナーの狭間を行ったり来たりしていた。その際に本書を見つけた。

 

 購入した理由は3つ。1つは作者が知っている人物だったから。2つは比較的ページ数が少なく、読みやすそうだったから。3つはタイトルに惹かれたからだ。

 『小説禁止令に賛同する』

 不思議なタイトルだ。小説を禁止することに賛同するという内容の小説とは?

 小説が禁止されたものの、ものを書くことがやめられない主人公が、小説の禁止に賛辞を送るという内容の文章を書くというような内容だろうか。そう思い、陳列されていたこの本を棚から取り出し、最後のページを読んでみる。なるほど、わからん。

 これはおもしろそうだと感じ、この本を購入した。

 

 

感想

 まず、随筆と小説の違いとは何かということを考えさせられる内容であった。

 "わたし"は自分が書いているものは、あくまで小説ではなく随筆であるという旨の主張をし、それを論理的に説明しようとしていた。しかし、私(作中の人物ではなくこのブログを書いている私自身)は、"わたし"の主張を読めば読むほど、"わたし"の説明は苦し紛れであり、小説と随筆を分けることの難しさを感じてしまった。

 高校の現代文では、いかにも小説と随筆は別物であり、明確な基準があるかのように教えられたが、実際には紙一重であるということをこの本に教えられた気がする。

 それも踏まえた話になってくるが、この『小説禁止令に賛同する』という作品を通じて、怖さのようなものを感じた。

 先ほど、小説と随筆を分けることの難しさについて述べたが、この2つが分けられないと作中世界では大問題だ。書いた文章が小説であると判断されてしまえば、小説禁止令に反することになってしまう。そして、文章が小説か随筆かは、筆者の意図がどうであれ、読み手に委ねられてしまうのだ。

 私は、この「読み手に委ねられる」という点に怖さを感じてしまった。筆者の意図は関係なく、読み手次第でいくらでも解釈できてしまう。ごく自然であたりまえのことだが、この文章の解釈の違いというものは、世の中で様々なトラブルが起こる大きな原因ではないだろうか。

 人が面と向かって話す、または電話を通じて話す。これ以外の人と人との交流は、SNSや手紙、メールなど、文字に頼って行われる。文字に頼ったときに起こる行き違い、ケンカ、はたまたSNSの炎上など、これらのトラブルは発信者の意図と受け手の文章解釈の違いが原因によって起こることがしばしばある。発信者がいくら気をつけても、受け手側の解釈が100%発信者の意図通りになるわけではない。文字を使う以上、これはしかたのないことだが、作品内では、解釈のしようによっては、法令違反となって処罰される危険性がある(もしかしたら現実世界もあまり変わらないのかもしれない)。

 SNSやネットニュースなど、文字情報が飛び交う世の中であるが、文字情報の危うさのようなものが、この作品を読んだことによって露呈してしまった気がして、恐ろしい。

 また、この作品を通じて感じられる怖さはこれだけではない。"わたし"が書いている随筆には、我々の感覚からすると不自然な箇所がいくつもある。この不自然の理由(この理由は物語の核心な気がするのでここでは大きくは触れない)は、非常に空想的なものであるように思われる。しかし、その理由である作品内の世界状況や、その世界で行われる表現の規制というものには、どこかリアリティが感じられる。それが私に、現実世界への僅かな怖さを与えている。

 

 この作品を理解したかのようにここまで述べてきたが、そんなことはない。特に、私の読む力が不足しているためか、この作品の終盤の"わたし"の言わんとすることは、なかなか理解できない(今も)。再読の余地がありそうだ。

 

 一読しただけでは、理解できない部分もあるが、ディストピア小説でありながら、どこか妙に現実的な恐怖を感じる作品であったと思う。

 この恐怖を説明することはなかなか難しいので、ぜひこの作品を実際に読んで、この恐怖感を味わって欲しい。というか、共有したい!