門左衛門のメモ帳

趣味と本の感想

【感想】相棒season12 中 第十三話「右京さんの友達」 そもそも杉下右京という人物とは?杉下右京の相棒とは?根本的なことを考えさせられる

※昨日公開するテイで書いたのですが、なんだかんだあって(ミス)先ほど公開にしました。話がかみ合わないところがありますが、ご容赦ください

 

3月も後半に差し掛かり、新年度への準備をする時期になってきている。4月から進学、就職など、様々な理由から新生活を始める方も多いだろう。私は、新年度になっても大きく生活に変化はないため、小売店が混み合う前に買い物を済ませようと思っている(特別必要なものがあるわけではないが)。

さて、そんな年度替わりであるこの時期には、先ほど触れた新生活以外にも、様々な変化が起こる。例えば、テレビの番組改編。始まる番組もあれば終わりを迎える番組もあるわけだが、毎年この時期に最終回を迎えるドラマがある。そう、ご存知、刑事ドラマの『相棒』である。私は、毎週欠かさずに見ているというわけではなく、気が向いたときや再放送を見る程度だ。しかし、やはり見たらおもしろい。好きな作品である。

 

今年の相棒はseason20という節目の作品であり、OPも初期(亀山時代)を意識したような曲調になっていた。個人的には歴代OPの中でもかなり好きな方だ。そんな相棒20も明日の放送で最終回。明日の放送回で、4代目相棒の冠城亘役を演じる反町隆史さんの卒業が発表されている。そんな最終回を迎える前に、本日は、相棒の中で私が最も好きな回を振り返ってみようと思う。

私が最も好きな回。それはseason12の第13話「右京さんの友達」である。残念ながら、自宅のテレビのビデオデッキの容量の関係で、録画は残っていないため、今回はノベライズ本である『相棒 season12 中』を見ながらふり返っていきたい。

 

 

 ここまで冠城のことを話題に出しておきながら、冠城の話じゃないのかよ!と、思われたら申し訳ない。バチバチに甲斐亨時代のお話です。

 

 

感想

この回は杉下右京のナレーションから始まるという入りからもわかる通り、独特な回であった。刑事モノ・推理モノであるはずの本作であるが、詳細はわからなくとも、かなり早い段階から、犯人が明らかに1人に絞られた状態で物語が進行する。この回は「犯人は誰か?」「犯行のトリックは?」といった部分ではなく、「犯行に至った経緯」や「犯人の人物像」などが掘り下げられた回であり、推理モノというよりはヒューマンドラマ的な要素がある回であったように思う。

私は、右京と毒島の似たもの同士の人間の絡みがこの回のおもしろい部分であると思うが、終盤に右京と毒島の違いという部分が強調されていた部分が個人的にはよかったと感じた。

毒島は孤独であるのに対し、右京は孤独ではなく、孤高の存在であるという違いが作中で触れられていた。

相棒という作品を通して、杉下右京や、右京の所属する特命係は、周りから何かと煙たがられたり、厄介者扱いされることが多い。しかし、実際は周りが避けているだけではなく、右京自信も周りを避けている部分もあるというのはおもしろいと思った。

また、それと同時に、一見、完璧超人な孤高の存在である杉下右京になぜ相棒が必要なのか?という根本的な問いも考えてしまった。この点については私自身答えがでていないため、ぜひ皆様の考えをお聞かせ願いたい。

 

ーーーーー以下ネタバレが含まれる可能性がありますーーーーー

 

 

 

 

 

追記(考察)

この記事を書きながら、この話を読み返しているとあることに気づいた。私はこれまでこの回の構成が

右京のナレーション(現在)→毒島との出会い・その後の経過(回想)→毒島宅を二度目の訪問(現在)→エンディング

↑このようになっていると思っていた。

しかし、よく読んでみると、2度目に毒島宅を訪問するシーン以後も右京によるナレーションがあるのだ。つまり、この回はすべて過去の話であり、事件解決後の右京が後から事の顛末を語っているのだ。

右京のナレーションというのは、作中で右京が書いた、毒島との出会い・その後の経過・事件の推理を描いた小説の一節である。右京はそれを持参して右京は二度目の毒島宅の訪問を行うわけである。しかし、ラストシーンの直前にも右京のナレーションがあった。このことから、この話は事件解決後に、右京が毒島宅に持参した小説を加筆・完成させたものであると考えることができる。

 

 

この記事を書きながら上記のような新たな新たな解釈ができてしまった。この話は初回放送が2014年の1月22日であったということで、もう8年前の作品にもかかわらず、奥が深い。この記事を読んだ方で、この回を未視聴だという方はぜひ視聴して欲しい。また、ノベライズ本の方もおもしろいので、おすすめしたい。

 

さて、明日は相棒20の最終回・冠城亘の相棒卒業回である。名残惜しくもあるが、どんな結末を迎えるのか、楽しみだ!

【感想】『小説禁止令に賛同する』よくわからないけど妙に現実的で怖い

 特段読書が好きというわけではないが、本屋に陳列されている本を眺める、手に取る、そうした行為に時間を使うことが好きだ。そんな私は、昨日も本屋を訪れ、小説コーナーと新書コーナーの狭間を行ったり来たりしていた。その際に本書を見つけた。

 

 購入した理由は3つ。1つは作者が知っている人物だったから。2つは比較的ページ数が少なく、読みやすそうだったから。3つはタイトルに惹かれたからだ。

 『小説禁止令に賛同する』

 不思議なタイトルだ。小説を禁止することに賛同するという内容の小説とは?

 小説が禁止されたものの、ものを書くことがやめられない主人公が、小説の禁止に賛辞を送るという内容の文章を書くというような内容だろうか。そう思い、陳列されていたこの本を棚から取り出し、最後のページを読んでみる。なるほど、わからん。

 これはおもしろそうだと感じ、この本を購入した。

 

 

感想

 まず、随筆と小説の違いとは何かということを考えさせられる内容であった。

 "わたし"は自分が書いているものは、あくまで小説ではなく随筆であるという旨の主張をし、それを論理的に説明しようとしていた。しかし、私(作中の人物ではなくこのブログを書いている私自身)は、"わたし"の主張を読めば読むほど、"わたし"の説明は苦し紛れであり、小説と随筆を分けることの難しさを感じてしまった。

 高校の現代文では、いかにも小説と随筆は別物であり、明確な基準があるかのように教えられたが、実際には紙一重であるということをこの本に教えられた気がする。

 それも踏まえた話になってくるが、この『小説禁止令に賛同する』という作品を通じて、怖さのようなものを感じた。

 先ほど、小説と随筆を分けることの難しさについて述べたが、この2つが分けられないと作中世界では大問題だ。書いた文章が小説であると判断されてしまえば、小説禁止令に反することになってしまう。そして、文章が小説か随筆かは、筆者の意図がどうであれ、読み手に委ねられてしまうのだ。

 私は、この「読み手に委ねられる」という点に怖さを感じてしまった。筆者の意図は関係なく、読み手次第でいくらでも解釈できてしまう。ごく自然であたりまえのことだが、この文章の解釈の違いというものは、世の中で様々なトラブルが起こる大きな原因ではないだろうか。

 人が面と向かって話す、または電話を通じて話す。これ以外の人と人との交流は、SNSや手紙、メールなど、文字に頼って行われる。文字に頼ったときに起こる行き違い、ケンカ、はたまたSNSの炎上など、これらのトラブルは発信者の意図と受け手の文章解釈の違いが原因によって起こることがしばしばある。発信者がいくら気をつけても、受け手側の解釈が100%発信者の意図通りになるわけではない。文字を使う以上、これはしかたのないことだが、作品内では、解釈のしようによっては、法令違反となって処罰される危険性がある(もしかしたら現実世界もあまり変わらないのかもしれない)。

 SNSやネットニュースなど、文字情報が飛び交う世の中であるが、文字情報の危うさのようなものが、この作品を読んだことによって露呈してしまった気がして、恐ろしい。

 また、この作品を通じて感じられる怖さはこれだけではない。"わたし"が書いている随筆には、我々の感覚からすると不自然な箇所がいくつもある。この不自然の理由(この理由は物語の核心な気がするのでここでは大きくは触れない)は、非常に空想的なものであるように思われる。しかし、その理由である作品内の世界状況や、その世界で行われる表現の規制というものには、どこかリアリティが感じられる。それが私に、現実世界への僅かな怖さを与えている。

 

 この作品を理解したかのようにここまで述べてきたが、そんなことはない。特に、私の読む力が不足しているためか、この作品の終盤の"わたし"の言わんとすることは、なかなか理解できない(今も)。再読の余地がありそうだ。

 

 一読しただけでは、理解できない部分もあるが、ディストピア小説でありながら、どこか妙に現実的な恐怖を感じる作品であったと思う。

 この恐怖を説明することはなかなか難しいので、ぜひこの作品を実際に読んで、この恐怖感を味わって欲しい。というか、共有したい!